松尾芭蕉句碑
奥之院参道、中之橋と御供所との中ほど付近に位置します。
- 無休
奥之院参道、中之橋と御供所との中ほど付近に位置します。
大門は、11世紀末頃に高野山の総門として現在の場所に建てられましたが、お大師様のご開創当初には現在地より少し下がった九折谷に鳥居が建てられていました。
西暦1643年三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物です。
玉川の清流を背にして金仏の地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいらっしゃいます。
高野山霊宝館は、高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設として大正10年に有志者の寄付と金剛峯寺によって開設されました。
多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。高さはおよそ15メートル。屋根の一辺はおよそ9メートル。
苅萱道心(かるかやどうしん)と石道丸(いしどうまる)の話は、悲話として広く知られています。
高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。
その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。
お大師様が中国より宝珠を持ち帰り、それを山頂にうずめられようと山道へ来られた時、突然夕立に見舞われ、濡れた衣を岩に干したことから弘法大師御衣干岩として言い伝えられています。
お大師様の母親が結界を乗り越え女人禁制の高野山に入山しようとした時、激しい雷雨が母親を襲いました。お大師様はこの大磐石を押し上げ、母親をかくまったといわれています。
お大師様が袈裟を掛けられたと言われており、この石から高野山の清浄結界となります。この石の下をくぐれば長生きするとも言い伝えられ「くぐり石」とも呼ばれています。
御廟橋の下を流れる川で、奥之院裏山の霊峰揚柳山から流れ出ています。子どもたちが串に刺して焼いていた魚を、お大師様が串から抜いて魚を川に放したところ、魚が生き返って泳いだという。
この橋を渡ると弘法大師御廟への霊域に入ります。この橋は36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表しているといわれ、橋板の裏には梵字が刻まれています。
奥之院の「一の橋」と「御廟橋」の中間にあることから「中の橋」といわれ、正式には手水橋(ちょうずばし)といわれています。平安時代には、この場所で身を身清めていました。
弘法大師御廟に向かう参道の入り口で最初に渡る橋。昔からお大師様が人々をここまで送り迎えしてくれるとの言い伝えがあり、今もこの橋の前で合掌一礼する姿が見られます。
弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の際に造られました。日本で最大での石庭は雲海の中に雄雌一対の龍が向かい合い、金胎不二の相を呈し、奥殿を守護する龍の姿が表現されています。
高野山開創当時は講堂とよばれ、平安時代半ばから、一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。現在の建物は七度目の再建されたもので、1932年に完成されました。
お大師さんが高野山を開創された折、真っ先に整備へ着手した場所が壇上伽藍です。高野山真言宗の発祥の地であり、現在も重要な儀式のほとんどは根本大塔や金堂で行われています。
お大師様とその弟子、真然大徳と二代にわたり70年の歳月をかけて完成したと伝えられる根本大塔は高野山のシンボルでもあります。多宝塔様式としては日本最初のものといわれています。
お大師様が御入定されている聖地で、高野山の信仰の中心でもあります。一の橋から御廟まで約2kmの道のりに20万基を超える諸大名の墓石などとともに、樹齢千年を超える杉がそびえています。
お大師様の弟子、真然大徳が初めて建立し、その後藤原道長によって現在の大きさに近い燈籠堂が建立されました。堂内正面には千年近く燃え続けているといわれる二つの「消えずの火」があります。
真言宗総本山である金剛峯寺は、元はお大師様の弟子、真然大徳の住まいがあったところで、覺鑁上人が大伝法院を建立し、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために建立させた寺院。
奥の院一の橋を渡って中ほど右手に「武田信玄公」の墓所前にある石は、昔は「息処石」と書いて「腰掛け石」と読んだそうで、お大師様が休憩にと腰をかけたという言い伝えがあります。
お大師様が唐より帰国される時、真言密教を広めるのにふさわしい場所を求め、明州の浜より日本へ向けて三鈷という法具を投げ、見つかった場所がこの松といわれています。
弘法大師御廟は大師信仰の中心で聖陵です。お大師様は835年3月21日寅の刻、御年62歳で御入定されました。お大師様自らが廟所として決められた場所とも伝えられています。
高野山開創伝説の三鈷の松の前に建ち、もともとはお大師様の持仏堂でしたが、後に真如親王が描いた大師御影をお祀りしたことから、御影堂と名付けられました。
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お参り、ご観光の際に精進料理をご賞味下さい。当院では、お泊まりでなくてもお気軽に精進料理を召し上がって頂けますよう、3つのお昼コースをご用意いたしました。
高野山の麓の九度山にある慈尊院から奥之院の御廟まで約24kmある参詣道には、1町(109m)ごとに町石があり、高野山表参道の道標であり、参詣者の祈りを捧げる石でもあります。
真言密教の聖地ならではの歴史や伝統文化、お寺での宿泊や写経体験、精進料理などのプログラムがそろう高野山での森林セラピーは、ほかの地域では体験することができないものです。
世界遺産の登録の年に湧出した高野山唯一の天然温泉「高野山温泉」は24時間入浴可能。
庭園家の重森三玲氏による福智院の3つの庭は世界的に高い評価を受けています。
高野山の静かな雰囲気の中で数珠をつくる体験です。親玉を磨く作業が自分の心を浄化した気分になり不思議と心穏やかになっていきます
高野山の宿坊寺院で出される精進料理は、五法、五味、五色、すなわち調理方法、味付け、色彩バランスを大切にした料理です。
高野山にある52の宿坊寺院は、精進料理や庭園、文化財などそれぞれの特徴があり、選ぶのも楽しみの一つ。翌朝は、ぜひ本堂での早朝勤行に参加してみるのも、宿坊ならではの体験です。
高野山学とは、真言密教の聖地として独自の文化を創り、今日まで継承されてきた文化を学ぶ講座で、歴史、思想。芸術、信仰、自然などさまざまな視点から、高野山の魅力を知ることができます
総本山金剛峯寺内の新別殿で、随時、僧侶の法話が行われています。また、休憩所としてお茶とお菓子の接待があります。
授戒とは、現代社会が抱えているさまざまな問題に対し、重要な方向性を示している「十箇条の戒め」を授かることで、高野山大師教会で毎日、お授けが行われています。
阿字観は、お大師様によって伝えられた真言密教の瞑想法で、真言禅とも呼ばれています。
写仏とは、仏様の姿を写し描くことで、お手本の仏様の姿に半紙を重ね、その上から筆でなぞり描き写します。
写経について、お大師様は、心を込めて仏教の教典である「般若心経」一巻を書き写すことで、心身ともに健康になり、一切の苦厄が去り、周囲の人々まで幸せを受けるといわています。
祖山高野山に春を運ぶ恒例の柴燈大護摩供、高野の火まつりを今年も厳修することとなりました。この機会に是非ともご来山頂き、霊峰高野山で行われる荘厳な柴燈大護摩供にお参り下さい。
和歌山県伊都郡高野町高野山で毎年7月下旬に開催される学童野球大会。野球を通じて青少年の健全育成と学童のスポーツ交流を目的に、1996年に近畿大会として開催。1998年の第3回大会より西日本大会として規模を拡大し現在に至る。
「高野山」をメインステージとするクラシックカーの祭典「ヴェトロモンターニャ」。悠久の歴史が生きる「紀伊山地の霊場と参詣道」と古典的自動車との融合。古い文化から学び・守り、その環境を後世に伝えようとする人々の情熱から生まれました
毎年8月13日高野山では萬燈供養会(高野山ろうそく祭り)が開催されます。ろうそく祭りとは参拝者によって一の橋から奥之院までの聖域約2キロメートルの参道を約10万本のローソクの光で荘厳し、先祖をはじめ奥之院に眠る総ての御霊を供養するお祭りです。
土砂加持秘法ともうしまして、土砂を加持して亡者の得脱を祈ります。お彼岸の中日にこの法会を行うことにより、高野山の先師だけでなくすべての聖霊に対しご供養致します。
奥之院にはたくさん墓地が立ち並び、毎年たくさんの御納骨される方がいらっしゃいます。毎年5月21日はこれらすべての精霊に対し、施餓鬼供養を致します
戦没者慰霊法会は、先の太平洋戦争の時になくなられた数々の戦没者をお慰めし、世界平和を祈る法会です。稚児行列を先導に、大会堂を出発し、職衆は「散華」を散らしながら、御詠歌の鈴鉦が響く金堂へ行道致します。
法会(ほうえ)とは、仏教において仏法を説くためや供養を行うための僧侶・檀信徒の集まりである。特に大きな法会は大会(たいえ・だいえ)と称されることがある。
青葉輝く6月15日は、宗祖弘法大師さまのご誕生の日です。高野山では町を挙げて、宗祖降誕会や華やかな花御堂渡御を中心に、様々な催し物が繰り広げられます。