北畠親房公墓
南朝の中心となり、武将として勇壮に戦い続けた公家でしたが、その武勇むなしくこの地で病死しました。小高い山の木立につつまれて、ひっそりと墓石がたっています。
- 0747-32-9010(賀名生の里歴史民俗資料館)
- 無休
- 五條市西吉野町賀名生1
南朝の中心となり、武将として勇壮に戦い続けた公家でしたが、その武勇むなしくこの地で病死しました。小高い山の木立につつまれて、ひっそりと墓石がたっています。
後醍醐天皇が吉野へ逃避される際に立ち寄られました。その後、京の都を追われた後村上天皇、長慶天皇の二帝が住まわれたと伝えられています。
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。
白銀岳の波宝神社で行われる祭りは「岳祭り」と呼ばれています。まず朝から本社式典が行われ、その後、直会(なおらい)と呼ばれる神様との食事会が行われます。
武雷命・天皇屋根命・経津主命・姫大神を祭神とします。春日造りの檜皮葺の、こじんまりとした神社ですが、格調高く、国の重要文化財に指定されています。
祭神は宇智大神。荒木神社とは、旧街道・国道24号線をはさんで南北に向き合います。
延喜式内社。祭神は神吾田津姫(かむあたつひめ。コノハナサクヤヒメとも)・火闌降命(ほのすそりのみこと。海幸とも。隼人の始祖とされる)など。春日造の本殿と摂社の八阪神社社殿は江戸時代の様式で、市指定文化財です。
『瀬の堂の薬師さん』として土地の人々の厚い信仰を集めているのが大澤寺。
奈良県五條市野原は、辯天宗発祥の地。辯天宗立宗の儀と本堂造営の御神示が宣布されて以来、信者一人ひとりが真心の奉仕をして創りあげました。落慶は、昭和29年10月。春秋の大祭など、年間を通じて多くの祭典が執行される祈りの聖地です。
天暦年間(947~957)桜井康成の創建と伝える古刹です。天誅組は桜井寺を本陣として五條仮政府と号しました。浄瑠璃の艶容女舞衣の三勝、半七の塚があります。
旧伊勢街道の名残で,今でも江戸時代の商家の街並み,風情を色濃く残す新町筋の中でも,特に国の重要文化財の栗山邸は,建築年代のわかっているものでは日本最古の民家といわれています。
五條市の古い町並みは、主に通称「新町通(しんまちどおり)」と呼ばれる旧紀州街道沿いにあります。
「五條文化博物館」近くの山間にひっそりとたたずむ山岳寺院で、役小角(役行者)の草創と伝えられています。
金剛寺は今から800年前平安朝の文化人小松内大臣、平重盛公の創建による古寺と伝えられています。
祭神は井上内親王・早良親王・他戸親王。御霊本宮とも呼ばれ、旧宇智郡一帯の御霊神社はここから分祀されたと伝えます。
条代官所襲撃で旗上げした天誅組は、1863年維新回天を夢見て、五條市から大塔村天辻の鶴屋治兵衛宅に本陣を置き、十津川郷士の助けを借りて戦いました。 西熊野街道最大の難所だった天辻峠がある新天辻トンネル南に「鶴屋治兵衛翁頌徳碑」と刻んだ石碑、その上の天辻小学校に「天誅組本陣遺跡」の碑があります。
大塔の地に逃れてきた大塔宮(大塔宮護良親王)を支えた郷士戸野兵衛の墓です。大塔宮の偉業の証は、今もなお戸野氏の子孫たちによって、大切に残されています。
父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企て隠岐に流された後、大塔宮は逃避の旅の末、大塔の地で郷士戸野兵衛の助けを得て安堵の日々を送ることとなりました。やがて王政復古を願う親王(名を改め「大塔宮護良親王」となった)は、近隣の精鋭軍を従えて倒幕のため蜂起しました。
弘法大師がこの景勝を描こうとしましたが、岩石が水に逆らって動き、どうしてもうまく描けず、ついに筆を捨ててため息を漏らしたといういわれが伝わります。
お大師様が大和の一郡毎に七墓所を加持されたといわれ野原の墓地はそれらの最初の墓だといわれています。また一番最後に総加持をされたのが大野原で、これは「阿陀の大墓」と言われています。
お大師様が造られたと伝わる弁財天がお祀りされています。元々竹生島の弁財天でこの地に移された後、天の川で祀られたものの、夢のお告げで天福寺へ戻りたいということでここへ戻されたと伝えられています。
お大師様が開創したと伝えられ、古くから「ふげんさん」の名で親しまれています。本尊は普賢延命菩薩坐像(重文・秘仏)です。
お大師様が本を読んでいたら、吉野川のせせらぎがうるさいので、流れに石を投げ込み呪法を唱えた。せせらぎの音がぴたりとやみ、音を立てずに流れるようになったことが「音無川」の言われです。
お大師様が高野山開創の時に立ち寄り、一尺八寸の小地蔵を彫って本尊胎内に祀りました。山号の寄足山は、お大師様が立ち寄られたことから「よらせ」といわれるようになりました。
お大師様がおばあさんに水がほしいと伝えたところ、おばあさんは吉野川まで水を汲んで差し上げました。その親切にお大師様は錫杖で地を掘ったところから清水が湧き出たという伝説があります。
高野山開創前に狩場明神と出会い、二匹の犬に導かれて高野山へいたったと伝えられています。境内には犬飼大師塚、犬飼明神塚の両古墳(6世紀)もあります。
お大師様が一夜のうちに磨崖仏を刻もうとしたものの片方の足を彫り残したまま夜が明けたので、立ち去ったという伝説が残っています。
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奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。
滞在中何度でも入浴していただける「金剛乃湯」は、「保湿効果抜群!!」と特に女性に人気の湯です。
食材はほぼ自家製。名産の柿を使ったメニューも楽しみ。
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。
吉野川は、古くから文化の交流や物流などが、人々の暮らしやまちの成り立ちに大きな影響を与えてきました。昭和47年には「県立吉野川津風呂自然公園」に指定されています。
世界遺産で和歌山県にある「那智の滝」と夫婦であるといわれている「宮の滝」は、落差約40mの3段の滝。新緑や紅葉だけでなく、玄関時の凍りついた様相も迫力があって美しいです。
五條市大塔町篠原には篠原滝や支流の宮の滝などの名瀑があり、四季折々の美しさを感じるスポットです
奈良県の三大梅林の一つの「賀名生(あのう)梅林」は、純白や淡い紅色の梅2万本が咲き誇ります。700年間の南北朝時代に都を追われた公家たちが賀名生の梅を歌に詠んでいることから、古くからの梅の名所だったようです。
高野辻ビューポイントでは、世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」の大峯奥駈道が通る大峯連山や真言密教の聖地、高野山の山並みが見ることができます。
温泉は地下1300mよりくみ上げられる天然温泉100%のみを利用しており、泉質はナトリウム-塩化物炭酸水素温泉です。
ふれあい交流館は、「夢乃湯」を利用した総合温泉施設で、市民の文化や福祉の活動拠点、さまざまな交流の場としての機能を持っています。大会議室やアスレチックルーム、さらにはプレイルーム(TVゲーム)やカラオケルームまで完備し、ゆったりくつろいでリフレッシュできる環境か整っています。
道の駅「吉野路大塔」は、大塔の様々な観光情報をはじめ、特産品を一堂に集めた総合案内センターです。
白銀岳の波宝神社で行われる祭りは「岳祭り」と呼ばれています。まず朝から本社式典が行われ、その後、直会と呼ばれる神様との食事会が行われます。それが終わると「岳祭り」の一大イベントである渡御です。
毎年10月最後の土日に御霊神社の秋祭りが開催される。本殿催事の後、ご神体を御輿に移し吉野川を渡って約2キロ離れた、五條市五條1丁目の御旅所である、恵比須神社へ練り歩く。
五條市南阿田地方に戦前までは「流し雛」の伝統が残されていましたが、戦中戦後は一時途絶え、昭和44年に復活されました。素朴な昔ながらの色紙で着物と袴を作り、大豆で頭をつけた雛男女一対を、竹の皮で作った船に、紙で作った一文銭を添えて乗せ、吉野川に流します。
日本の花火文化の礎を築いたと伝わる鍵屋弥兵衛の出身地、奈良県五條市で開催される花火大会です。吉野川の川面に灯篭の光が揺れる中、音楽やレーザー光線とコラボしながら約4000発の花火が、夜空と川面を幻想的な色彩に彩ります。 開催日:8月中旬
舟ノ川流域に点在する篠原、惣谷、中井傍示などの山深い地域の集落は、古くより「舟ノ川郷」と呼ばれる木地師の集落として、独自の文化や芸能を長く留めてきた地域です
阪本天神社の盆踊りは、特に山村らしい風情を残すことから「阪本踊り」と呼ばれ、奈良県の無形民俗文化財に指定されています。
毎年1月14日,大津の念仏寺陀々堂では500年の伝統を誇る火の祭典「鬼走り」が行われます。燃えさかるたいまつを振りかざした父鬼・母鬼・子鬼が堂内を豪快に走り回り,住民の災厄を払います。