吉野神宮
1889年、明治天皇が後醍醐天皇をしのんで創建されました。
- 吉野町吉野山3226
1889年、明治天皇が後醍醐天皇をしのんで創建されました。
もともとは吉水院という、吉野の修験宗の僧坊で、650年~654年、役行者が創立したと伝えられています。明治のはじめ、神仏分離の際に、後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印をまつる神社に改められました。
創建は901年~922年、日蔵上人により開かれたとされています。山門を入ると、正面には如意輪堂があり、左に庫裏、宝物殿、一段高いところには多宝塔があります。
葛城・都祁・宇太とともに、大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきています。社殿は世界遺産に登録されています。
金峯神社は吉野山から山上ケ岳に向かう時に、必ず通る場所になっています。そのため、鎌倉時代は宿坊等が多く、門前町としてにぎわっていたようです。修験道の行場で、藤原道長も祈願したと「栄華物語」に記されています
金峯山寺は吉野山のシンボルといわれており、修験道の根本道場です。
吉野川が蛇行する河岸段丘の上にあり、縄文時代から奈良時代の遺跡跡です。
国栖小学校の校門坂の脇にある白狐園には、谷崎潤一郎の歌碑「ゆふされはくぬき林に風たちて国栖の山里秋は来ぬらし」が刻まれています。また、谷崎の著書「吉野葛」には、当時の国栖の手すき和紙のことが記されています。
吉野川を見下ろす丘の上に鎮座している、小さな塚です。
東川村・南国栖村の氏神でしたが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となりました。本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉時代のもの。大蔵神社の庭園は室町時代のもので、標高303mにある優れた庭園として県指定になっています。
西暦671年、兄の天智天皇からの譲位を断り、吉野の宮に入った弟の大海人皇子は、敵に襲われたところを、国栖の人たちに助けられました。
柳の渡しは、聖宝・理源大師が開いたと言われています。修験道「奥駆け」の最初の行場として知られ、かつて吉野・大峯に入る行者たちはここで身を清めていきました。吉野川の三渡津の一つです。
古刹龍門寺の別院、龍華台院として建立された寺。ぼけよけ地蔵尊、役行者霊蹟札所です。
伊勢本街道沿い、国栖の里にある、高野山真言宗の増長院の末寺です。本尊の大日如来坐像は、厨子に入っており、毎年4月21日(旧3月21日)に開帳されます。
弘法大師大峯登拝に際して、ここに留まり一宇を立て椿山寺と号したのに創まると言われています。本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師です。
大峯山に詣でた行者さんの忠告に従うことになった川戸の人々が河分の水源地(聖地)を選び、火伏せの神としてここに招請したとして大明神と伝えられています。
明治の末、山あいの地に西洋風のモダンな建物が総工費8,000円で建てられました。その斬新さは人々を鼓舞し、村民の誇り、村のシンボルとして親しまれ、70年近く使われつづけました。現在は民俗資料館として利用されています。
滝光寺の近くに建つ高算堂は、同寺の開祖と伝えられる高山上人像と木造彩色の蔵王権現像が祀られています。
黒滝村の中央に位置しており、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を祀っています。
昔の茶屋跡で、地蔵菩薩にささげる清水がこんこんとわき出ています。
妙法寺上市の断崖を登ったところを大師山と言い、その中腹にはお大師様を祭ったお堂が建っています。眼下に吉野川が見下ろされ、吉野の山々が見渡されます。
理源大師が箱屋勘兵衛を伴い大蛇を退治した。その時、大法螺貝を吹き祈祷したが、その音が百の法螺貝を一時に吹き鳴らしたようであったことから百貝ケ岳と呼ばれるようになりました。
道標には、高野山や大峯山上道の表記があり、高野山との関わりを示しています。
黒滝の妙見神社は、最初に弘法大師によって建てられたと言われています。本尊は妙見菩薩で、明治時代の神仏習合で神社になりました。
役行者が勅命により、国家安泰を祈願する道場として開山し、お大師様のゆかりを説き、895年に聖宝理源大師によって建立されたと伝わります。毎年6月に醍醐寺から僧侶が護摩焚きを行います。
お大師様が日本・朝鮮・中国の三国の土を集めて地蔵像をつくり祀ったのが始まりで、もとは鳳閣寺の別院だったと言われています。
聖観音・金剛童子・弁財天・護法神の各像は、江戸時代初期の遍歴の僧「円空」の作で、どの像も見るものを惹きつける穏やかな微笑みをたたえています。
修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)の母「白専女(しらとうめ)」をお祀りするお堂で、安産に霊験あらたかとされ、線香の煙が絶えません。
「世界遺産」・わが国最高所に建つ国重要文化財のお寺で、毎年5月3日に戸開式、9月23日に戸閉式が行われます。また、これまでに発見された数々の遺物から「山の正倉院」とも呼ばれています。
真言宗醍醐派大本山のお寺で、大峯山寺の護持院の一院です。役行者が泉の辺に八大龍王尊をお祀りして、水行をしたのが、龍泉寺の始まりであると伝えらています。
来迎院は天河大辨財天社の形成する七堂伽藍の塔中の一つでありました。境内の銀杏の木はお大師様がお手植えとされており、昭和52年に天然記念物にも指定されています
お大師様の杖を地面に突き立てたところが根付き生長したのが『菩提樹』だといわれています。また、お大師様の数珠が落ちて、そこから芽が出てきて『菩提樹』になったとも言われています。
天ノ川に落下するこの滝の谷をさかのぼると、岩穴の中にお大師様が彫ったと伝わる仏像の形をした自然石があることから『お不動さん』と呼ばれ、滝の名も『不動滝』となったといわれています。
大峯本宮あるいは吉野総社として、大峯修験の要の行場とされ、とくにお大師様の参籠後は、大峯参り、高野詣と併せて多くの人々が訪れるところとなりました。
谷が金山谷と高水谷に分かれているあたり、高水の水の噴き出し口がある100mほど上に大師の籠り岩という岩があります。
この山は別名蛇倉山(じゃのくらさん)ともいい、女性修験者の参詣登山が多い山です。昭和24年に開山され、奥之院へは本殿横の金属製の錫杖沿いに急な階段を登っていけば約40分で到着します。
白石山の頂上近くに、岩の表面が磨かれているのではないかと思えるほどきれい石があります。お大師様との直接の伝承は伝わってないものの、何らかの関わりがあったと思わせる不思議な石です。
大峯山で修行していたお大師様が水の珠を持ち出し、弁天様(天河弁財天)に追いつかれ、ここで水の珠を手放したとも伝えられています
お大師様が高野山から大峯に至る間に、この池で衣を洗ったことからこの名がついたといわれています。残念なことに、現在この場所は道路拡張工事により存在しない場所となっています。
お大師様が修行中、カエル(ビキ)が産卵しようとしているが、水がないため「杖で穴を掘り、水を出した」と云われのある水です。
川の音がごうごうとうるさく昼寝が出来ないため、お大師様が一喝して音を止めたという話が伝えられています。
大峯山で修業していたお大師様は千本の尾根と千本の谷がある場所を開山しようと三鈷を投げたところ、小泉川の松の木に落ちたことから、今でも洞川ではこの場所を三鈷の松と呼ばれています。
南朝の中心となり、武将として勇壮に戦い続けた公家でしたが、その武勇むなしくこの地で病死しました。小高い山の木立につつまれて、ひっそりと墓石がたっています。
後醍醐天皇が吉野へ逃避される際に立ち寄られました。その後、京の都を追われた後村上天皇、長慶天皇の二帝が住まわれたと伝えられています。
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。
白銀岳の波宝神社で行われる祭りは「岳祭り」と呼ばれています。まず朝から本社式典が行われ、その後、直会(なおらい)と呼ばれる神様との食事会が行われます。
武雷命・天皇屋根命・経津主命・姫大神を祭神とします。春日造りの檜皮葺の、こじんまりとした神社ですが、格調高く、国の重要文化財に指定されています。
祭神は宇智大神。荒木神社とは、旧街道・国道24号線をはさんで南北に向き合います。
延喜式内社。祭神は神吾田津姫(かむあたつひめ。コノハナサクヤヒメとも)・火闌降命(ほのすそりのみこと。海幸とも。隼人の始祖とされる)など。春日造の本殿と摂社の八阪神社社殿は江戸時代の様式で、市指定文化財です。
『瀬の堂の薬師さん』として土地の人々の厚い信仰を集めているのが大澤寺。
奈良県五條市野原は、辯天宗発祥の地。辯天宗立宗の儀と本堂造営の御神示が宣布されて以来、信者一人ひとりが真心の奉仕をして創りあげました。落慶は、昭和29年10月。春秋の大祭など、年間を通じて多くの祭典が執行される祈りの聖地です。
天暦年間(947~957)桜井康成の創建と伝える古刹です。天誅組は桜井寺を本陣として五條仮政府と号しました。浄瑠璃の艶容女舞衣の三勝、半七の塚があります。
旧伊勢街道の名残で,今でも江戸時代の商家の街並み,風情を色濃く残す新町筋の中でも,特に国の重要文化財の栗山邸は,建築年代のわかっているものでは日本最古の民家といわれています。
五條市の古い町並みは、主に通称「新町通(しんまちどおり)」と呼ばれる旧紀州街道沿いにあります。
「五條文化博物館」近くの山間にひっそりとたたずむ山岳寺院で、役小角(役行者)の草創と伝えられています。
金剛寺は今から800年前平安朝の文化人小松内大臣、平重盛公の創建による古寺と伝えられています。
祭神は井上内親王・早良親王・他戸親王。御霊本宮とも呼ばれ、旧宇智郡一帯の御霊神社はここから分祀されたと伝えます。
条代官所襲撃で旗上げした天誅組は、1863年維新回天を夢見て、五條市から大塔村天辻の鶴屋治兵衛宅に本陣を置き、十津川郷士の助けを借りて戦いました。 西熊野街道最大の難所だった天辻峠がある新天辻トンネル南に「鶴屋治兵衛翁頌徳碑」と刻んだ石碑、その上の天辻小学校に「天誅組本陣遺跡」の碑があります。
大塔の地に逃れてきた大塔宮(大塔宮護良親王)を支えた郷士戸野兵衛の墓です。大塔宮の偉業の証は、今もなお戸野氏の子孫たちによって、大切に残されています。
父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企て隠岐に流された後、大塔宮は逃避の旅の末、大塔の地で郷士戸野兵衛の助けを得て安堵の日々を送ることとなりました。やがて王政復古を願う親王(名を改め「大塔宮護良親王」となった)は、近隣の精鋭軍を従えて倒幕のため蜂起しました。
弘法大師がこの景勝を描こうとしましたが、岩石が水に逆らって動き、どうしてもうまく描けず、ついに筆を捨ててため息を漏らしたといういわれが伝わります。
お大師様が大和の一郡毎に七墓所を加持されたといわれ野原の墓地はそれらの最初の墓だといわれています。また一番最後に総加持をされたのが大野原で、これは「阿陀の大墓」と言われています。
お大師様が造られたと伝わる弁財天がお祀りされています。元々竹生島の弁財天でこの地に移された後、天の川で祀られたものの、夢のお告げで天福寺へ戻りたいということでここへ戻されたと伝えられています。
お大師様が開創したと伝えられ、古くから「ふげんさん」の名で親しまれています。本尊は普賢延命菩薩坐像(重文・秘仏)です。
お大師様が本を読んでいたら、吉野川のせせらぎがうるさいので、流れに石を投げ込み呪法を唱えた。せせらぎの音がぴたりとやみ、音を立てずに流れるようになったことが「音無川」の言われです。
お大師様が高野山開創の時に立ち寄り、一尺八寸の小地蔵を彫って本尊胎内に祀りました。山号の寄足山は、お大師様が立ち寄られたことから「よらせ」といわれるようになりました。
お大師様がおばあさんに水がほしいと伝えたところ、おばあさんは吉野川まで水を汲んで差し上げました。その親切にお大師様は錫杖で地を掘ったところから清水が湧き出たという伝説があります。
高野山開創前に狩場明神と出会い、二匹の犬に導かれて高野山へいたったと伝えられています。境内には犬飼大師塚、犬飼明神塚の両古墳(6世紀)もあります。
お大師様が一夜のうちに磨崖仏を刻もうとしたものの片方の足を彫り残したまま夜が明けたので、立ち去ったという伝説が残っています。
熊野に左遷された大八郎を慕って、椎葉村を発った鶴姫は、この地で流行り病に倒れ、「たずねきし身に浮雲のめぐりきて、月のさわりになりぞ悲しき」と裳裾をしぼり歌を詠み、「七尾七浦の見える処に埋葬して欲しい」と言い残して亡くなったと伝えられています。そんな秘話の主人公鶴姫にちなんだ、豊かな自然と地域資源を生かした公園です。
平維盛(たいらのこれもり)は熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。
御本尊の薬師如来はお大師様が一夜にして造ったものと言い伝えられています。また乳薬師ともいわれ、乳や耳の病に効くといわれています。
高野山開創前にお大師様は大峯山から水の珠を持ち出して高野山に向かったところ、野川弁財天はその珠を取り返そうと追いかけましたが、取り返すことはできなかったと伝えられています。
お大師様が高野山を開く前に三宝荒神の像を描いて祀り祈願したのが、荒神社の始まりです。お大師様は高野山開基の後も毎月参詣し、その後も高野山の高僧たちが参詣していたと伝えられています。
奥之院参道、中之橋と御供所との中ほど付近に位置します。
大門は、11世紀末頃に高野山の総門として現在の場所に建てられましたが、お大師様のご開創当初には現在地より少し下がった九折谷に鳥居が建てられていました。
西暦1643年三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物です。
玉川の清流を背にして金仏の地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいらっしゃいます。
高野山霊宝館は、高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設として大正10年に有志者の寄付と金剛峯寺によって開設されました。
多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。高さはおよそ15メートル。屋根の一辺はおよそ9メートル。
苅萱道心(かるかやどうしん)と石道丸(いしどうまる)の話は、悲話として広く知られています。
高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。
その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。
お大師様が中国より宝珠を持ち帰り、それを山頂にうずめられようと山道へ来られた時、突然夕立に見舞われ、濡れた衣を岩に干したことから弘法大師御衣干岩として言い伝えられています。
お大師様の母親が結界を乗り越え女人禁制の高野山に入山しようとした時、激しい雷雨が母親を襲いました。お大師様はこの大磐石を押し上げ、母親をかくまったといわれています。
お大師様が袈裟を掛けられたと言われており、この石から高野山の清浄結界となります。この石の下をくぐれば長生きするとも言い伝えられ「くぐり石」とも呼ばれています。
御廟橋の下を流れる川で、奥之院裏山の霊峰揚柳山から流れ出ています。子どもたちが串に刺して焼いていた魚を、お大師様が串から抜いて魚を川に放したところ、魚が生き返って泳いだという。
この橋を渡ると弘法大師御廟への霊域に入ります。この橋は36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表しているといわれ、橋板の裏には梵字が刻まれています。
奥之院の「一の橋」と「御廟橋」の中間にあることから「中の橋」といわれ、正式には手水橋(ちょうずばし)といわれています。平安時代には、この場所で身を身清めていました。
弘法大師御廟に向かう参道の入り口で最初に渡る橋。昔からお大師様が人々をここまで送り迎えしてくれるとの言い伝えがあり、今もこの橋の前で合掌一礼する姿が見られます。
弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の際に造られました。日本で最大での石庭は雲海の中に雄雌一対の龍が向かい合い、金胎不二の相を呈し、奥殿を守護する龍の姿が表現されています。
高野山開創当時は講堂とよばれ、平安時代半ばから、一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。現在の建物は七度目の再建されたもので、1932年に完成されました。
お大師さんが高野山を開創された折、真っ先に整備へ着手した場所が壇上伽藍です。高野山真言宗の発祥の地であり、現在も重要な儀式のほとんどは根本大塔や金堂で行われています。
お大師様とその弟子、真然大徳と二代にわたり70年の歳月をかけて完成したと伝えられる根本大塔は高野山のシンボルでもあります。多宝塔様式としては日本最初のものといわれています。
お大師様が御入定されている聖地で、高野山の信仰の中心でもあります。一の橋から御廟まで約2kmの道のりに20万基を超える諸大名の墓石などとともに、樹齢千年を超える杉がそびえています。
お大師様の弟子、真然大徳が初めて建立し、その後藤原道長によって現在の大きさに近い燈籠堂が建立されました。堂内正面には千年近く燃え続けているといわれる二つの「消えずの火」があります。
真言宗総本山である金剛峯寺は、元はお大師様の弟子、真然大徳の住まいがあったところで、覺鑁上人が大伝法院を建立し、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために建立させた寺院。
奥の院一の橋を渡って中ほど右手に「武田信玄公」の墓所前にある石は、昔は「息処石」と書いて「腰掛け石」と読んだそうで、お大師様が休憩にと腰をかけたという言い伝えがあります。
お大師様が唐より帰国される時、真言密教を広めるのにふさわしい場所を求め、明州の浜より日本へ向けて三鈷という法具を投げ、見つかった場所がこの松といわれています。
弘法大師御廟は大師信仰の中心で聖陵です。お大師様は835年3月21日寅の刻、御年62歳で御入定されました。お大師様自らが廟所として決められた場所とも伝えられています。
高野山開創伝説の三鈷の松の前に建ち、もともとはお大師様の持仏堂でしたが、後に真如親王が描いた大師御影をお祀りしたことから、御影堂と名付けられました。